徳川家斉

徳川家斉が俗物将軍と言われた本当の理由〜子供の数は53人

側室の多さや子供の数では歴代将軍でも群を抜いていた徳川家斉

江戸の11代将軍である徳川家斉は、歴代将軍の中でも側室の多さやその子供の数は他の将軍を圧倒しています。

 

側室に産ませた子供の数が53人などと聞くとにわかには信じられませんが、どうやら真実のようです。

 

俗物将軍と呼ばれた彼の散財により、江戸幕府の財政は年々傾く一方でした。

 

ただの女性好きとしか思えない徳川家斉ですが、いったい彼はどのような政治を行ったのでしょうか?

 

ここでは、徳川歴代将軍の中でも異色中の異色である、徳川家斉の真実についてみていきたいと思います。

 

在位50年で子どもの数はなんと53人!?

家斉は10代将軍家治に子供がいなかったため養子になります。

 

その後家治が急死したため、15歳という若さで将軍になり、その後50年にわたって将軍として在位します。

 

その間に40人の側室を持ち、名前がわかっているだけでも16人に子供を生ませているようです。

 

その子供の数は、の男の子23人と女の子27人の合計53人といわれています。

 

その子作りのための体力には本当に驚かされます。

 

生んだ後も、その子供たちの面倒を見なければならなかった周囲の人間はさぞかし大変だったことでしょう。

 

このころの幕府は、吉宗の質素倹約の時代とはかけはなれ、贅沢三昧の生活を送っていたようです。

 

これだけの子供に贅沢三昧をさせていたら、幕府の財政も大変だったに違いありません。

 

事実、このころの幕府の財政は火の車だったようです。 

 

たくさんの子供は一橋家で将軍家を固める狙いから?

では徳川家斉は、なぜこれほどまで多くの子供を作ったのでしょうか?

 

もともと江戸幕府において将軍が選ばれる血筋というのは尾張、紀州、水戸の御三家と決まっていました。

 

しかし、紀州から選ばれた八代将軍の吉宗が新たに御三卿を設けました。

 

つまり、将来の将軍職を紀州の血筋で固めてしまおうと思ったわけです。

 

吉宗の次男田安家、四男一橋家、長男家重の次男清水家という取り決めです。

 

吉宗以降9代目と10代目が続けて長男の家重の家系でしたが、11代目になってやっと一橋家(家斉)にチャンスが回ってきたわけです。

 

そのため家斉は、今後は一橋家で将軍職を固めようという狙いがあったようです。

 

そのため日ごろからかかさず「しょうが汁」を飲み、オットセイの陰茎の粉末を飲み精力増強に励んでいたようです。

 

そのかいあって50年という長きにわたって将軍職に就くことができ、53人というたくさんの子宝に恵まれたわけです。

 

その子宝のおかげか,家斉以降は12代,13代,14代と3代続けて家斉の家系から将軍が生まれることになりました。

 

まさに、家斉の思惑通りだったかどうかは定かではありませんが、いずれにしても彼が無類の女好きだったことは間違いなさそうです。

 

なぜ徳川家斉は松平定信を老中首座から解任したのか?

徳川家斉が将軍に就任すると、手始めに家春の時代に幕府の政治を思い通りにしていた田沼意次を罷免します。

 

当時、田沼意次は他の家臣からの評判は最悪の状態でした。

 

しかし、将軍に就任したばかりの徳川家斉まだ15歳と若かったため、政治を取り仕切ることは難しく御三家からの推薦もあり松平定信を老中としてとりたてて幕府の運営に当たらせることにしました。

 

この松平定信は、実はあの名君といわれた徳川吉宗の孫にあたる人物です。

 

その祖父の影響からか、田沼政治により腐敗していた幕政を何とかしようと、吉宗の改革に習って幕政を行うことになりました。

 

厳しい倹約生活はもとより、賄賂による人事などを徹底して排除します。

 

飢饉対策を徹底して行ったり、旗本への学問を奨励することなどにより、徐々にその効果がみられるようになっていきました。

 

祖父の吉宗と同様の厳しい政治を断行したわけです。

 

吉宗は将軍という立場でその力を発揮したわけですが、松平定信は吉宗の孫とはいえ立場はあくまで老中ですので、他の老中たちから徐々に窮屈がられ、彼らから不満を持たれるようになります。

 

そのころ徳川家斉は、自分の父親である徳川治斉を江戸城に呼び大御所と呼んで将軍と同等の待遇を与えようとします。

 

これに松平定信は大反対したようです。定信にしてみれば、それを認めてしまうと自分の立場が弱くなってしまうので反対するのは当然のことでしょう。

 

これらのさまざまなことがきっかけとなって、松平定信は罷免されることになります。

 

家斉の女好きを定信が気にしていた?

どこまでが史実かわかりませんが、家斉はかなりの女好きで毎日のように側室と夜をともにしていたわけですが、そのことを定信が気にして体にさしつかえるからとなだめたこともあったようです。

 

俗物将軍と呼ばれ自由奔放な徳川家斉と堅物の松平定信の間に徐々に亀裂が生じるようになったのは、ある意味必然だったかもしれません。

 

その結果、松平定信が主導した堅実な幕府の政治はわずか6年で終わりをつげることになります。

 

うるさい目の上のたんこぶである定信がいなくなったからこそ、徳川家斉は53人もの子宝に恵まれたのかも知れませんね。

 

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