徳川吉宗と享保の改革

徳川吉宗の享保の改革に見る財政再建と驚きの質素倹約

徳川吉宗の享保の改革に見る財政再建と驚きの質素倹約

徳川吉宗というと、かつての人気ドラマである暴れん坊将軍を思い出す人も多いことでしょう。

 

また、享保の改革を実行した将軍として教科書でもお馴染みですね。

 

そんな徳川吉宗は、破綻しかけていた幕府の財政を立て直すために、自分自身に対してもとても厳しい人物だったようです。

 

江戸時代を代表する名君とうたわれている吉宗ですが、果たしてその本当の素顔はどうだったのでしょうか。

 

そもそも享保の改革とはどのようなことを行ったのか?

歴史の教科書には必ずといっていいほど書かれている、徳川吉宗による享保の改革ですが、実際にはどのような改革だったのでしょうか?

 

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項目別に具体的に見ていきましょう。

 

1.都市政策
南町奉行の大岡忠相が主導し、都市政策の改革にあたりました。

 

人気テレビドラマであった「大岡越前」のモデルになったのがこの大岡忠相です。

 

当時は「火事とけんかは江戸の華」などと言われましたが、大岡忠相はこれを沈静化することに着手していきました。

 

火事の多かった江戸の防火対策として、町火消しの組合を作り現代の消防の基礎を築きました。

 

当時は、火事が起こるとその周辺の建物を破壊し燃え広がるのを防ぐような消化方法を取っていました。

 

そのため、火消しになる人の多くは少々気性が激しい人が多く、火消しの組合同士のけんかも絶えなかったようです。

 

しかし、こうした組織のおかげで消化方法が徐々に改善されていき、手押しポンプなどの道具も発明されました。

 

また大岡忠相は、江戸近郊の農政改革にも着手しています。

 

穀物の取れ高を増やすために、新田を開発したり、水の供給を安定させるための堤防作りや河川の流れを変えたりということを実行しました。

 

また飢餓対策として、新しい作物を研究するよう青木昆陽に命じています。

 

甘藷先生と呼ばれる青木昆陽は、サツマイモ栽培の研究を行い、それを全国に普及させました。

 

2.足し高の制
江戸時代において、それなりの高い役職につくにはそれ相応の身分が必要となりました。

 

つまりある程度の石高がないと高い役職にはつくことが出来なかったのです。

 

しかし、当然ながら身分が低くても能力がある人物はいたはずです。

 

その点に目を付けた吉宗は、そういった人物に米を支給することで石高を上げ、それ相応の身分にして役職を与えました。

 

そして、その職を辞めるときには、コメの支給をやめてもとに戻すというシステムです。

 

吉宗はかなり、優秀な人物を発掘するという点に関しては、時代に先駆けた人物だったといえそうです。

 

3.目安箱
江戸時代において、一般的な身分の低い人の意見や願いが将軍の耳に届くことはありません。

 

そこで、吉宗は目安箱を設置して、庶民の生の声を聞くようにしたのです。

 

目安箱の設置がきっかけとなって、貧しい人であっても医者にかかれるようになったりしました。

 

町火消の組合を作るきっかけとなったのも、この目安箱だったようです。

 

暴れん坊将軍の主人公のように、徳川吉宗は本当に弱いものの見方だったのかも知れません。

 

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自ら1日2食で過ごし大奥の美女50人をリストラ

吉宗が将軍となったとき、幕府の財政はかなり厳しい状況にありました。

 

そこで、かつて紀州藩主として紀州藩の財政の建て直しに成功している吉宗は、将軍となったことで幕府の財政立て直しに着手することになります。

 

このころの幕府は、財政事情が悪いにもかかわらず、まさに贅沢三昧でした。

 

幕府の財政を立て直すために、まずは倹約が必要だと吉宗は考えました。

 

とはいえ、これまで贅沢の限りを尽くしてきた幕臣たちの気持ちを変えることは、そう簡単ではなかったようです。

 

吉宗は、まずは君主たる自分が模範を示すことが必要だと考え、自ら質素倹約に努めることになります。

 

幕府トップの将軍の身でありながら、身なりは絹ではなく木綿を羽織り、食事は一日二回で済ますようにしたそうです。

 

しかも、その献立は一汁三菜というとても質素なものでした。

 

質素とはいっても今で言う懐石料理形式の食事で、それぞれ食材は少量ではあっても栄養のバランスは取れていたようです。

 

また、盛り付けなどに手間隙かけて作る料理もこのころから発達していったようです。

 

そういった粗食のおかげもあったのか、吉宗は66歳まで生きることができました。平均寿命が30歳〜40歳代であった当時としは比較的長寿であったといえます。

 

幕府の財政状況を悪くしていた原因は、幕臣たちの贅沢三昧だけではありません。

 

大奥を維持するための経費も幕府の財政をかなり圧迫していたのです。

 

大奥のために幕府の財政のなんと25%も使っていたというから驚きです。

 

かかった費用のほとんどは着るものや身に付けるものだったようです。

 

倹約を勧める吉宗はこの大奥にもメスを入れます。

 

一般的にリストラと行った場合、年齢の高い人や能力の低いものがターゲットとなります。

 

しかし、名君である吉宗そんな安易な方法は取りませんでした。

 

大奥の女性の中でで容姿端麗でなおかつ25歳以下のものを50人選び出すようにと言いつけます。

 

女中たちは大変です。これは側室選びではないかと大騒ぎをしました。

 

ところが、意気揚々とやってきた女中たちに吉宗はリストラを宣言したのです。

 

なぜ、容姿端麗で若い女性ばかりを50人もリストラしたのでしょうか?

 

吉宗は「容姿端麗であれば良縁も多いはず。」と述べています。

 

つまり、若くて綺麗な女性であれば大奥を離れてもきっと良縁に恵まれるに違いないという吉宗の心遣いがあったのです。

 

このように人の心を思いやることのできる人物であったからこそ、吉宗は名君と呼ばれるようになったのでしょう。

 

吉宗の質素倹約に反発した御三家宗春

先に述べたように、吉宗の時代は事実上幕府の財政は破綻寸でした。

 

そのため将軍である吉宗自らが率先して倹約を徹底しました。

 

食べるものや着るものだけでなく、売り買いまでも制限をかけ始めます。

 

こういった吉宗の質素倹約の方針に猛反発したのが、御三家尾張藩の藩主徳川宗春でした。

 

藩主になった宗治は、吉宗の政策を大幅に緩めはじます。

 

夜遊びの門限を撤廃し、遊郭の営業を許可したりします。

 

さらには芝居の興行を許すだけでなく奨励することさえします。

 

自分の服装も豪華絢爛で派手なもの身にまとい、漆黒の馬にまたがっていたといいます。

 

なぜ、彼はそれほどまでに吉宗の倹約路線に反発したのでしょうか?

 

ひとつには、吉宗が将軍になる際に争った、当時の尾張藩主徳川継友との因縁があると言われていあす。

 

徳川継友は宗春の兄にあたる人物ですが、一説には吉宗に毒殺されたという噂があります。

 

そういったしがらみから、必要以上に吉宗の政策に反発していた可能性があります。

 

とはいえ、宗春のとっていた行動にはそれなりの大義名分があったようです。

 

吉宗の使者から問い詰められたとき、「倹約倹約といっても貯まるのは幕府の金庫であって、民を苦しませるのは本当の倹約でしょうか?私は金を使いますが、使うことによって金が回り、民の助けになるから使っているのです。」と述べたそうです。

 

確かに経済効果を考えたときに、ある程度のお金を使わないことには尻つぼみになってしまう可能性があります。

 

実際、宗春の政策によってこのころの尾張はとてもにぎやかになり活気のある町だったそうです。

 

こうした経済に対する考え方の違いを、実際に行動に起こして見せたのが宗春だったと言えるでしょう。

 

宗春の考えにも一理あるとは言え、吉宗にとっては幕府の存続が第一ですからこの宗春の行動は大問題と考えたわけです。

 

吉宗は宗春を危険人物とみなし、隠居させ死ぬまで幽閉してしまいます。

 

死んだ後もなおその墓には金網がかぶせられ、60年間この金網は除かれなかったといいいます。

 

それほど、幕府の方針に背いた罪は重いということなのでしょう。

 

それぞれの立場が違うゆえにお互いの主張が噛み合う事はなかったのですが、民を思いやる強い気持ちから物事に臨むところは、ある意味似たもの同士だったのかも知れません。

 

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